カテゴリー: 民俗

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謎解きの鍵は怪異を解剖!『青十字病院 東京都支部 怪異解剖部署』

怪異

民俗学

都市伝説

口裂け女、人面犬、黄色い救急車、テケテケ

タイムリープ

ホラーノベルアドベンチャー

この単語の中に貴方の興味をそそる響きはありますか?

私は全て刺さります!えぇ、全て!

何の話かといいますと、この興味をそそられてたまらない言葉全てを内包したゲームが開発、そしてsteamストアページに公開されたのです!

Youtubeにて公開されたティザー映像

長らくお待ちしておりました…

その断片の情報だけでも魅力満載なゲームのタイトルは

『青十字病院 東京都支部 怪異解剖部署』

舞台は1999年の日本。

具現化した都市伝説の「怪異」によって凄惨な事件が多発。

主人公はある出来事から「青十字病院」に所属し、怪異が起こした凄惨な事件へ関わっていくというもの。

ここまでで近代都市伝説全盛期を生きてきて、学校の怪談をDVDBOXで購入済みの私はワクワクとドキドキを禁じ得ません。

こんなに食指がわきわきするの久しぶり

怪異を解剖して真相を追え!

この『青十字病院 東京都支部 怪異解剖部署』、都市伝説が実在して起こす奇妙な事件と対峙するホラーアドベンチャーという胸高まり設定なだけでは収まらず、さらに面白そうな要素をふんだんに盛り込んでくれています。

それは事件の真相のために「怪異を解剖する」ということ!

凄惨な事件を起こした怪異を解剖すると、事件のヒントを得られるようです。

ヒントを得たら、(どのような力が及ぶのか明記されていないのでそこも楽しみですが)事件の起こる一週間前にタイムリープをして事件を捜査。

起きてしまった結末を変えることはできないそうですが、解剖の末に見つけたヒントでその都市伝説が起こした事件の真相へと深くたどり着けるのだそうです。

これまでもいくつか民俗学や都市伝説を基盤とするホラー作品と出会ってきましたが、その元凶を捕まえて解剖する試みは私経験上初めてのシステムです。

これまで直接怪異に手を出す作品なんて戦慄怪奇ファイル コワすぎ!の工藤ディレクターか地獄先生ぬ~ベ~くらいしか知りません。

解剖がどのような手法なのか、どのように真相のヒントを取り出すのか、表現はどのようなものか興味がつきません。

失敗演出も成功演出も全部見たい

魅力いっぱいのゲームを彩る魅力いっぱいの製作陣

もう書籍として出ても本棚に殿堂入りしてしまいそうな設定の『青十字病院 東京都支部 怪異解剖部署』ですが、このステキゲームを更にステキに魅力いっぱいに飾って下さる方々がいらっしゃいます。

メインイラスト&都市伝説デザインを行うのはpixivやX(旧Twitter)で絵師として活躍する「あさぎり」様。

奇抜かつ機能的であり、キャラクターの内面や仕事を如実に表しているような服装デザインや表情が刺さって刺さって仕方がない!

steamストアページより

私のなかで怪異のデザインも自然と期待値を上げていますが、それをどれほど上回るか想像すらつかない…!

貞子さんのジト目ギザ歯がとても好き。

steamストアページより

画集が出たら買います。5冊は買います。電子でも本でも買います。

都市伝説デザインを担当しているのは「たいやき」様と「ツジコマコ」様。

たいやき様の描かれる異形は圧倒的なスケールとディティールにより明らかに人間じゃどうにもならない力強さと神々しさを感じます。

それと同時に不思議と親近感というか親しみやすさというか…暖かさや寂しげな感覚、おおよそ人のような感性も持ち合わせていると思わせてくれるような身近さもなぜか感じてしまいます。

ツジコマコ様はメカメカしいのに丸みのあるフォルムで生き物感も滲み出すロボや、かと思えばうっそうとしげる木々やとても暖かみのある人物を描かれています。

このお二方の手掛ける怪異となればそれはそれは人類に絶望と感動を届けてくれることでしょう…

怪異出現ごとにセーブしてスクショしていきそう

プロップとロゴのデザインを担当されているのはクリエイティブスタジオ東東京京所属デザイナー「吉永」様。

触れたら怪我をしそうな鋭いデザインから丸みを帯びたかわいいデザインまで、なんでもござれのクリエイティブなデザイナー。

ご自身のツイッターにて『青十字病院 東京都支部 怪異解剖部署』のタイトルロゴとプロップデザインを公開しておりますが、これがまぁイメージとぴったりで驚嘆!

『青十字病院 東京都支部 怪異解剖部署』タイトルロゴ

タイトルロゴの無機質ながら、テンプレート文字にはない鋭さと異質さ。

プロップデザインの視覚に留まり脳に焼き付く、一目で危険と分かる帯デザイン。

本編のどのような部分で使われるのかじっくり観察していきたいですね。

しかしきっと意識せずともプレイヤーんl脳裏に焼き付くのでしょう。それほどまでに目を引くデザインだと思います。

音楽を担当するのは「離想宮」様。

実は私、公式様が公表した『青十字病院 東京都支部 怪異解剖部署』への起用を知る以前、youtubeにてたまたま離想宮様をお見掛けして以来のファンなのです。

初めて聞いた曲は『弾き狂えゴンゾラを』。

歌を聴き、MVを見て頭にガツンと衝撃を受けたような感覚に陥りました。

芯にハリがあり、聴く人の耳を引き留めるような声色。

独特な色合いで心地よい雰囲気のMV。

空想のようでその実、自分とリンクをしてしまう現実味を帯びた夢のような歌詞。

まるでもうひとつの世界のみんなのうたが混線してしまったかのようで、私は聴くに集中して動きを止めてしまいました。

深夜のラジオとかで流れてきたら絶対ラジオ局に問い合わせして詳細を調べまくっていたことでしょう。

とにかく聴いてみて。絶対好きになるから。

そんな人を魅了する天才たちを集めてゲームを開発をしているのがインディーディベロッパーのFuroshiki Lab.です。

冥界のコールセンターに就職した主人公が、下界の幽霊を冥界まで導くノベルゲーム『1f y0u’re a gh0st ca11 me here! 幽铃热线』や、セーブ&ロードの機能をゲーム性に取り入れて日記を破りその先の展開を変えるノベルゲーム『Home coming』(ブラウザにてプレイ可能)などを手掛ける一風どころか二風も三風も変わった開発チームになります。

steamストアページより『1f y0u’re a gh0st ca11 me here! 幽铃热线』プレイ画面

これを読んだだけで刺さる人には刺さりすぎる開発チームが、これまた刺さりすぎるデザイナーやミュージシャンを集めて作られているのが、

青十字病院 東京都支部 怪異解剖部署

なのです!

嬉しくて思わず記事にしてしまいましたが、私はただの1ファンとしてこのゲームの発売をとても楽しみにしています。

いつでもどこでもプレイできるようにsteamDeckを購入しているほどには楽しみにしている次第です。

早くこの世界にどっぷり浸りたい…なんならsteamDeckに吸い込まれたい…そんなことを思いながら、2024年の発売日を首を長く長くして待っているのでした。

それではまた。

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名の呪と言霊

言霊は実在します。ひげのくまです。

皆様は「呪い」をご存じですか?

なんてことを聞くまでもなく言葉としては知っている人が大多数であろう呪い。

この呪いという代物、実はあなたも使えるんですよっていうお話。

名前はこの世で一番短い呪(しゅ)

「不動利益縁起絵巻」より安倍晴明(右中央)

この見出しの言葉は夢枕獏先生の小説「陰陽師」に登場する希代の陰陽師「安倍晴明」が言った言葉です。

安倍晴明は占い師でありながら天文学者であり式神を使役する現代でもあらゆる創作物に登場する平安時代のヒーローのような存在。

その安倍晴明が得意とした呪術のひとつに「言霊」があります。

「眼にみえぬものにさえ名という呪で縛ることができる」

「陰陽師」より安倍晴明の言葉

安倍晴明が言うとおり、形のないものに名前を与えることでそこに像を結ばせることすら可能にするのです。

その呪の中でも使いやすくて短いものが「名前」。

名の呪が持つ力

台風」という言葉があります。台風と聞くとどんなものか日本人なら特に容易に思い浮かぶことでしょう。

この「台風」を台風という言葉を使わず人に説明しようとすると、なんだかとても難しい感じがしませんか。

「なんか日本から遠い場所での空気の流れのせいで起こる、すごい雨や風が吹いて時に人や牛が飛ぶほどに外を出歩くにも危ない荒れた天候状態」

こんな感じのことを名前の呪を使うことで「台風」という2文字に込めることができるのです。

人間にとって一番の恐怖は「未知」であるのは古代より言われていること。

五感で感じ取れないものや感じ取れても人知の及ばない強大な力、このような得たいの知れないものには昔から人間は恐怖し、不安を覚えてきました。

この不安を減らすためにこれまで人類は「名の呪」を使い、抑えてきました。

この呪いは怪異さえ作り出すことができる

鳥山石燕「画図百鬼夜行」より家鳴り

鳥山石燕の妖怪画集『画図百鬼夜行』に登場する「家鳴り」という妖怪がいます。

家具や柱、時には家自体を揺らし音を出す小鬼のような姿で描かれた妖怪で、現象だけで言えば飛鳥時代から伝わっているかなり古株の怪異とされています。

安心して住んでいる家から突然鳴り響く怪音。

パキパキと何かが割れるような音からミシミシと家全体が軋むような音、時にはかまどや襖が揺れたりして、そこを確認しにいっても何か居るわけでもない。原因がわからない昔の人はさぞ恐怖したことでしょう。

このよくわからない現象に鳥山石燕は「家鳴り」という名前を与え、絵に書き起こすことで、

家が鳴るのは家鳴りという存在が原因→名前があるなら姿もあるはず→姿があるなら対処法もあるはず

このように実際はいないものに形を与え「全くの正体不明」から「刀で倒せる小鬼」という手を出せる範囲まで引き出しました。

家鳴りは家の一番振動してるとこを刀で突き刺すとたおせるらしいよ

  • 近代にも十分通用する名の呪のパワー

口裂け女という都市伝説をご存じでしょうか。

黄昏時の路地、薄暗くなったその場所の電柱のそばに真っ赤なトレンチコートにロングの髪をした女性の影。

恐る恐る後ろを通ろうとすると

「私、きれい?」

と、問いかけられ振り向いた先には顔を隠すほどに大きなマスクを付けたトレンチコートの女性が。

「私、きれい?」

再度問いかけられ、きれいだと答えると

「これでも?」

おもむろにマスクを外すとそこには耳まで裂けた真っ赤な口が。うまく答えられなければ執拗に追いかけて質問者の口を同じように裂いてしまう。

昭和から平成に生まれた子供達を震撼させた都市伝説の大御所的な存在、それが口裂け女です。

私が子供の時分には怪談本にはレギュラー出演で、めちゃくちゃ足が早いとか鎌で裂いてくるバージョンやハサミバージョンなんかも出たりして、「何処其処の街に出た」だとか「◯◯君のいとこが実際に追われた」だとか様々な情報が飛び交っていたものです。

どの話の口裂け女にも共通する弱点があり、「ポマードポマードポマード」と唱えると消えるというもの。

こちらにも地方によって話に差異があり、「口裂け女に整形を施術し、失敗した医者の髪がポマードでべったりだった説」や「口裂け女を振った彼氏がポマードべったりだった説」があります。

実はこの口裂け女、かなりの社会現象を巻き起こして新聞に記事がでたり警察が動員することすらあったのです。

1979年1月22日名古屋タイムズに掲載された「口裂け女」

黄昏時というちょっと離れた人が誰か認識できないほどには薄暗い時間帯、まだまだ街灯も今ほど多くない路地。そんな人を少し「不安」にさせる状態。

その「不安」に誰が最初に言い出したかもわからない「口裂け女」という名前が付き姿を描きあげ日本中を走り回り国家公務員が動きマスコミが記事にするような事態が起こったのです。

見られないし触れもしないモノに実体を与える、これが「名の呪」の力です。

幽霊を作る方法

上記にあげた以外にもこういった話は枚挙に暇がないのですが、それほどまでに「名の呪」というものは呪いという荒唐無稽じみた言葉に現実味を持たせるエネルギーを持ち合わせています。

この呪いエネルギー、誰にでも使えることができるのです。しかもほぼ成功します。

これ実はスピリチュアル的なそういうのではなく、(もちろんそういう部分も含んでいる場合も多いですが)科学的にも効果が実証されています。

こうした言葉にする呪いを「言霊」とも言い、言葉そのものに力が宿るという思想です。

さて、この力の使い方は至極簡単。

「言う」

それだけです。

幽霊も「言えば」作れてしまうのです。

なんの曰くのない公園や池で「夜に幽霊を見た」と知人に言います。信じてもらえないかもしれませんがそれでよいのです。

知人はそこを通る度に「あいつ幽霊が出たっていってたな」と思わせれば幽霊の原型は完成します。

話が広がり始めると花を添える人がでるかもしれません。そこでなにかあったという事件の記憶が生まれるかもしれません。実際に幽霊を見た人が現れるかもしれません。

何もなかった場所に言葉ひとつから始まりそこには「実在しない死者」という本物が生まれてしまうのです。

一人の想像が二人、四人と広まり何百、何千と増えれば幽霊を幽霊としての実体を得るのです。

  • 実際に作ってしまった話

学生時代、私の学校には中庭と池がありそこにはお坊さんの霊が出るという怪談がありました。

夜な夜なお経を唱えては消えていくだけの無害な霊でしたが、後にお坊さんの霊を見る子が増えて問題になりかけたりしました。

お地蔵様が設置されきちんと御供養をされたそうです。

実はこの話、夏休みの自由研究で私が始めた実験で、噂話の広がりと変容をテーマに行った行動でした。

友人知人に「夜に学校の前を通ると中庭からお経を唱える声がする」という話を流布し自分で庭の木を削ってこさえた不細工な数珠のような玉を数個撒いておくとどう広まるかという実験。

結果として何もなかった中庭から「居なかったはずのお坊さんの霊」が出現し、本職の方から供養されるという事態にまで発展してしまいました。

騒動が大きくなって怖くなったので、この自由研究は提出せずに封印しました…

言霊のエネルギーは伝染する

人という生き物は未知の部分があるとそこを埋めたくなってしまう性分を持ち合わせています。

そこを埋めるためには多少の違和感があっても自身の都合のよい方に流れれば安心感は増すという結果が実証されています。

不安を埋めたいけど未知のせいで埋まらない不安定な気持ちのことを社会心理学では「認知的不協和」っていうらしいよ

名の呪を含めた言霊の力は個人に影響を与えるだけではなく多数の人に多くの影響を与えてしまいます。

悪用するも活用するも使い手次第ですが、うまい人ほど用心して使うべきだと私は思います。

この力、一度自分の手を離れる領域に行くと制御はほぼ不可能になります。

雪玉を転がすと次第に大きく速くなっていき、何かにぶつかるか自壊するまで止まらなくなるように、言霊のエネルギーも対処法まで入れて使わないととんでもないことになりえます。

「名の呪」を使ってみようかなと思う人は是非使い方を気を付けて、収拾可能な範囲で使ってみることをおすすめします。

次回は「言霊」を社会的に使う「プロパガンダ」とかについて書いてみようかしら。

それではまた。

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獣のお肉は植物だからセーフ

お肉料理はシェパーズパイが好き、ひげのくまです。

皆様はお肉、好きですか?

香ばしい赤身の筋肉にも最適な牛肉、脂が少なくアレンジいっぱいで筋肉にも最適な鶏肉、さっぱりとした口当たりので筋肉にも最適な馬肉

現代では好きなときに好きなお肉を食べやすい時代になりましたが、その昔すごくお肉が食べづらい時代があったそうです。

しかしそこは知恵の塊である人間。

どれだけ禁止されようとあの手この手で肉を食べようと画策する人も大勢いたようなのです。

今日はそのお話。

日本における獣肉食の歴史

歴史の授業や映像、アニメ作品とかにも見受けられますが、文明開化の起こった明治時代を舞台にしたシーンで牛鍋を食べている場面を思い浮かべることはありませんか?

実は日本で肉を大々的に食べられたのはかなり近代に近づいてからになります。

散切り頭を叩いてみれば、みんな大好きすき焼きさん

その昔、獣肉食を禁忌とする時代があり明治以前まで食肉を忌避していたようです。

とはいえ日本も最初から食肉を避けていたわけではありませんでした。

魚や肉は貴重なエネルギー源なので、長野県の野尻湖立ケ鼻遺跡にも食肉の跡があったように旧石器時代には盛んに取り入れられていたようです。

お肉大好き旧石器時代(今から3万年くらい前)から一気に進んで西暦600年ごろ、飛鳥時代に仏教が台頭してきたことにより動物の殺生を禁止する流れが広まります。

675年(奈良時代)には仏教の影響により当時天皇に即位していた天武天皇から牛、馬、犬、サル、鶏を食することが禁止された文が公表されました。

奈良時代の貴族は天武天皇の禁令のもと食肉を禁忌としましたが、庶民には理解されず食され続けたといいます。

次の平安時代にも食肉の禁忌は続き、陰陽道が盛んになったことから牛や豚などの4つ足動物の肉を食べることは貴族の間だけでなく庶民にも広まりました。

食肉を穢れと信じるがあまり、馬肉を毒だとして罪人に馬肉を食べさせる事もあったと『小右記』にも記されています。

現代ではご褒美でしかない。

そこから武士の時代である鎌倉時代が訪れると一度獣肉食に対する禁忌が薄まったといいます。

仏教徒も教えや思想の変化から魚等を食べたりしています。

その一方でお肉絶対食べない勢にも変化が起こり始め、精進料理も発展を遂げ、肉料理に見立てた料理も出てきたりとちょっと肉に対する憧れというか「食べちゃいけないもの」感がかなり薄れてきてるような気がしますね。

15世紀を迎え、戦国時代にはいるとヨーロッパとの貿易が栄え始めたことにより当時の新大陸(アメリカ)の食材も日本へ入り始めます。

獣肉食禁忌は薄れているものの、依然牛や豚などの家畜肉に対する忌み嫌いは強く一般的には食されていませんでした。

かの宣教師フランシスコ・ザビエルは日本に準じて肉食は控えましたが、キリシタン思想では肉食を禁じていないため、その後の宣教師は信者達にこっそり牛肉などを食べさせていたそうです。

17世紀後半には徳川綱吉の「生類憐みの令」により、食肉禁忌はピークを迎えます。が、これは一時的なものだったので割りとあっさり廃れます。

18世紀から19世紀にかけて徐々に、しかし確実に食肉意識は変わっていき、肉料理のお店もどんどん出てきました。

ここで冒頭に話した明治時代に入ると食肉に対する忌避感は今だ残っていたものの、文明開化の象徴として本格的に牛肉を使った料理、代表としてすき焼きが流行りました。

日本の欧米化や大規模な多頭養豚経営などにより、1955年頃からは急速に肉食が一般化していきます。

こうしてみてみると私たちがお肉を食べたいときに食べるようになったのはここ50年ぐらいで、かなり近代なのだなと思いますね。

どうしてもお肉食べたくて

ここまで日本での食肉の流れを所々端折りつつ書き連ねましたが、お肉を全く食べない時代はないけど大っぴらには食べにくい時代がほとんどを占めていることがわかります。

神道や仏教、陰陽道など宗教により禁じられていたり貴族と庶民の位の差を見せるためだったりと理由はいくつかありますが、お肉好きには生きづらい時代が大半だったでしょう。

そんな中、どうしてもお肉を食べたい人たちが思い付いた方法が、

これ、お肉じゃないことにしちゃえばいいんじゃない?

作戦は至極簡単。お肉と呼ばなければお肉じゃないのです!

食肉忌避時代のピーク、戦国時代から江戸時代にかけて建前上は庶民も肉を欲しませんでしたがその実やっぱりおいしいお肉を食べたいので、隠語を使いこっそり食べていたそうです。

馬、鹿、猪などの獣肉を扱うお店は怪しいという言葉の隠語である「ももんじ」から取って「ももんじ屋」と名乗っていたそうです。

鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「百々爺

ももんじの語源は妖怪「ももん爺」から。
会うと病気になるって言い伝えられてるけどこっそりお肉売ってたお店への皮肉っぽいね。

さくら

馬肉さくらと呼ばれています。

こちらは馬肉の赤身がさくら色だからという説や江戸幕府直轄の牧場が佐倉地域(今でいう千葉県北部辺り)にあり、「馬といえば佐倉」だからという説などがあります。

私としては食肉に飢えていた人たちが作った隠語なので赤身がさくら色だったから説を強く推したいですね。おいしそうだし。

ちなみに食べ方は馬刺しというよりは鍋物のほうが主流だったようです。

ぼたん

いのししの肉はぼたんと呼ばれています。

こちらは猪の肉を人に出すときに牡丹の花のように配置することことからきてる説や、取り合わせ、配合のよいことを堂々たる獅子に豪華絢爛な牡丹の花を合わせた図柄である「獅子に牡丹」の獅子をいの「しし」ともじった説があります。

獅子に牡丹説はかなりおしゃれで素敵ですが、牡丹の花のように飾られた猪肉もかなりおしゃれなのでどちらの説も好ましいです。

かしわ

の肉はかしわと呼ばれています。

鶏の羽ばたく姿が神社で行われる「かしわ手」を打つ姿に似ているからという説や、当時食用とされていた日本在来種の茶色い羽を持つ鶏の肉が柏の葉の色に似ているからという説があります。

確かに並べてみてみると結構色が似ています。昔の人はよく考えてネーミングしたものですね。

並べてみると確かに近い

もみじ

鹿肉もみじと呼ばれています。

こちらも諸説あり、花札の10月札「鹿に紅葉」の絵柄から取った説や百人一首の「奥山にもみじ踏み分け鳴く鹿の 声きくときぞ秋は悲しき」からとった説が有力です。

どちらも風情があり鹿の美しいフォルムにぴったりですね。

植物以外の名前

代表的なお肉を紹介しましたが、実は他のお肉も植物以外の名前で食べていた記録があります。

なんだかんだずっと色んなお肉食べてたんですね、日本人。

名所江戸百景 第114景「びくにはし雪中」より、獣肉を売るお店。

江戸時代には堂々と精肉屋って看板を出せなかったから、獣肉全般を「山くじら」と称して売ってたよ。

ウサギ肉は「月夜」と呼ばれていたそう。これはシンプルにウサギに月は付きものだというイメージから。

ちなみにウサギを1羽2羽と数えるのは、仏教において獣肉はアウトでもあくまで4つ足で立つ獣と定義していたので、二足歩行な鳥はオッケーな宗派が多かったのです。

ウサギも二本足でいることも多いため、どうしてもウサギ肉を食べたい僧侶が二本足だから鳥!と言い張り食べていたそう。

フグにも「テッポウ」という別名があります。こちらも分かりやすく、食べると毒に当たるときがあるから。

キリスト教では水にいる生物はと称して、カピバラやビーバーも食べていたようです。禁じられると食べたくなるのはどの国も一緒なんです。

番外編として、英語圏でも牛(cow)牛肉(beef)豚(pig)豚肉(pork)で呼び名が違っていますね。不思議です。

調べてみたところ、今から1000年ほど前にイギリス人がフランス人に支配されている歴史がありました。

支配され、フランス人のために調理をしていたイギリス人が牛をcowと呼び、支配層であり、調理された肉を食べていたフランス人が牛をbeefと呼んでいたことから調理前と調理後で名前が変わることになったんですねぇ。

食欲と我慢

その時々の時代の流れや流行り、現代よりよほど神が近かったゆえ宗教観によって好きなものを食べられない時代が長くありました。

将軍や貴族すらも我慢をし、我慢が忌避となり民衆へ伝染。一度ついた嫌悪感を払拭するのは並大抵のことではありません。

令和では日本人のお肉消費量は1年間で1人あたり13kg以上で、昭和時代ですら1kg程度であったことからかなり食肉が進んでいます。

そして実は今現在世界的に人工と食肉が増え続け、2050年にプロテインクライシス(プロテイン危機)と呼ばれる事態が起こりそうだと警笛を鳴らす人々がおられます。

フードロスを減らせればプロテイン危機も回避できるかも。

好きにお肉を食べられる今だからこそ、食肉の歴史を振り返ってみるとまた違った味わいがでるかもしれませんね。

そのうち日本人が食べた無茶な食材の話もしようかなぁ。

それではまた。

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ごきずれ

こちらの記事は前記事「がきじろ」を合わせて読むことを強くおすすめします。

前回SCP-536-JP「がきじろ」をお話しさせていただきました。今回はそれに続く語り、「ごきずれ」を掲載させていただきます。

これを語る「私」の正体は誰なのでしょう。深まる謎を是非お楽しみください。

自分の家の中の光景。
あなたが思い出せる限り鮮明なものを、思い浮かべてみてください。
今あなたが住んでいる家でも、いわゆる実家でも構いません。

恐らく殆どの人が、昼間かもしくは夕方あたりの、たとえ夜だったとしても煌煌とした電気の点いた、明るい光景を想像した事と思います。


家というものは、特別な思い出は残らなくとも日常的に目にし、記憶に残っていく場所です。あなたが今までに過ごしてきた生活の中で、記憶として占める割合の最も多い場面が思い出されることが一般的でしょう。


そして私の場合、それはいつも真っ暗です。
自分の家と聞いて想像する私の記憶は、電気も点かず、昼であっても何処か薄暗い。
それが私の家であり、私が日常的に目にしてきた風景でした。

それは、四畳程度の和室の中での記憶です。
夕方ぐらいでしょうか。薄っぺらい布団だけが敷かれた、暗く殺風景な部屋。電気は点いておらず、障子の向こうから僅かに漏れ出る赤い太陽光だけが部屋の中を照らしています。私はそこで、ただ座っている。
何の音も無く。ただ私は、薄暗い和室に、ぽつんと座っているのです。


家の中の光景と聞いて私が思い出すのは、主にこのような場面です。季節はいつなのか、私が何歳ぐらいの頃のことなのか、それらは判然としないのですが、何故かそんな場面だけが私の中に焼き付いて、残っています。
いや、そんな場面だけ、というのは、少し正しくないかもしれません。それだけではない、と言ったら良いのでしょうか。

その薄暗く、狭苦しい和室に、女の子が一人、寝かされています。
私が和室に、恐らく正座で座っているのです。その膝の先、拳二つ分くらいの間を空けて、女の子の顔の右目側が手前に見えるようなかたちで、薄っぺらな布団が敷かれ、その子が横になっていました。夕焼けが漏れ出た障子がその女の子を隔てた向こう側にあり、逆光のようになっているために顔はよく見えません。そして。
その子が一体誰なのかを、私は全く思い出すことが出来ないのです。


ただそういった場面だけが自分の記憶の中に残っていて、それが自分の家であること、敷かれた布団の中に女の子が寝かされていることは覚えているのに、それがどんな人で、どんな声をしているといった詳細は、思い出そうにもどこかで突っかかったように、記憶が出てこなくなってしまいます。

そもそもその記憶には、声といった音の情報が欠落しているのです。それこそ一枚の写真のように、場面の情報だけがあって、その前後のあらゆる情報が抜け落ちてしまっている。簡単に言えば、そのような一場面としての記憶だけが、「自分の家に関する記憶」として私の中に居座っているような、そんな状態なのです。

思い出すたび、不思議な気分になります。
私は何をしていたんだろう。
何を話しただろう。
朧気ながら、何かを話したような記憶はあるのです。ただ、どうしても思い出せない。
しかし不思議と、それに対して、悲しいとか寂しいとか、或いは郷愁のような、そういった感情はあまり湧いてきません。


強いて言うなら、それは恐怖です。


恐怖というのが、一番近い感情かもしれません。私の中でその思い出は、理由もわかりませんが、おそろしい記憶として、いつまでもこびりついています。
こわい。
それは、とてもこわい記憶なのです。とても、いやな記憶なのです。
そんな、「いやだった」という感触のようなものだけが、私の中にいつまでも残っています。

私の家は、宮崎県の山あいの、小さな村の中にあります。煤けたような色合いをした木造の平屋で、瓦葺きの屋根の上には所々に大きな石が乗せられていました。


これは私の家に限らず、周りに在る幾つかの家でも同じようなことが行われています。雨風に耐え切れず落ちてしまった屋根瓦の代わりに、手ごろな大きさの石を乗せて対処をするのです。

本当は応急処置的な意味合いが強かったのでしょうが、ここらではわざわざ屋根を施工し直すような家の方が珍しいと言って良いと思います。
勿論、長い目で見たらそんなことをしている方が不便な事は多いのでしょう。

現に私の家でも屋根は石を置いているところから傷み、天井には人の頭ほどの大きさの黒ずんだ点が幾つも出来ています。雨漏りによって、木でできた天井は、そこの部分からじゅくじゅくと腐っていくのです。

だから私の家の中は、いつも湿っています。じめじめとした空気がいつでも充満して、息苦しいような感じがします。日本家屋なのですから本来は吸放湿性もそれなりに有る筈なのですが、服がなんとなく肌に張り付いて、寝転ぶと畳や垢などの粘ついた感触がまとわりつくような、じっとりとした湿気をいつでも感じているのです。


多分、湿気を調節するとか、空気を入れ替えるとか、家が家として持っているそうした機能が、この家にはもう失われているのだと思います。例えるなら、死んでしまった人が代謝も何もせず腐っていくような感じでしょうか。恐らくもう、家として死んでいるのです。

暗くて、湿っていて、臭い。和室の、畳の、藺草の香りなんてものはとうに失われています。土や木の死臭と、それから何とも言えない人間の生活臭が籠って、どろどろと発酵しているのです。

玄関の前に立ちます。

扉は引き戸になっていて、木枠の中にもやもやとした擦り硝子が嵌め込まれています。取手、というよりも指を掛けられる程度の凹みが扉の右側に付いていて、それを左方向に引きます。がらがらと気持ちよく開くことはまずありません。どこかで引っかかるような感触がするので、力を込めて半ば無理矢理に開けなければなりません。


扉を開けて家の中に入ると、そこは狭い玄関です。至る所に蜘蛛の巣が張られており、砂や綿埃が隅の方に溜まっています。上がり框の角の部分が一か所だけ削れたようにへこんでいて、煤けた茶色の色あいの中でその部分だけが薄黒く変色していました。
靴箱なども無いので、靴がいつでもぐちゃぐちゃに置かれています。玄関に入って左の隅には乾ききった泥がこびり付いた黒い長靴が並べられているのですが、使われているのを見たことは一度もありません。
きっとあの長靴の中には、蜘蛛の巣や砂や、そんな汚らしいものがじめじめと堆積しているのでしょう。もしかしたら気持ちの悪い虫なども入っているかもしれません。家の中の埃や髪の毛に混じって、よく座頭虫の足や黒虫の死骸が落ちているのです。

靴を脱いで、玄関から廊下に上がります。
廊下は板張りで、何故か所々にでこぼことした凹凸があります。掃除などがされている筈も無く、裸足で歩くとじゃりじゃりとした感触がします。昔はそれなりに綺麗だったのですが。暗くて足元の辺りはよく見えないのだけれど、もし明かりをつけて廊下を見たら、さぞ汚いのでしょう。巾木の上には埃が積もり、壁などは手垢が付いて変色しているかもしれません。


廊下をまっすぐ歩いた途中、左側の壁には木製の扉がひとつ付いており、そこは台所に繋がっています。何というか、とても辛気臭い場所でした。私が炊事をすることは殆どなかったので台所もあまり使わないのですが、あれでは料理もしづらいだろうことは素人目にも分かりました。

油の滓が至る所に散らばっている所為で、流しも鍋の周りもねちゃねちゃと汚れています。まな板の周りには小さな野菜屑が拭きもされずに溜まっていたため、常に嫌な匂いを放っていました。魚も野菜も、何を切ってもあの酸っぱい腐敗臭と生臭さが混ざった何とも言えない匂いがします。


小さな豆電球がまな板の上にひとつ付いているのですが、料理中の光源としては非常に心許ないものだったでしょう。壁にぽつりと設置されている黄土色の突起をぱちんと押すと数秒の間を空けて電気が付くのですが、それも何だかどんよりとしていました。卵の黄身が腐ったみたいな、澱んだ橙色の明かりが、臭い調理場の上にどろりと広がっていくのです。


包丁やまな板にもきっと、あの匂いは染み付いているのでしょう。あんな台所にずっと放り出されているんですから。たとえ固い金属なんかで出来ていたとしても、少しずつあの空気がじわじわと中に入り込んでいくんです。たとえ丁寧に洗っても、そこに染み付いている澱んだ空気は、きっと取れません。だから母の切り傷も治らなかったんだと思います。

台所の先にはお不浄とお風呂があります。
このお不浄が、それは臭いのです。
私の家のそれは汲み取り式で、流しなどもありません。ただ垂れ流されるものを受ける器としての役目だけを持っています。その器は私の家にはひとつしか無いため、大便も小便も一緒くたに垂れ流されることになります。
狭くて黒い穴の中から、思わずくらくらとしてしまうような臭気がふき出して、そこら一帯に充満しているのです。換気のための小さな窓は開いているのですが、そんなものでは気休めにもなりません。


ものを食べて飲んで、味や栄養といった良いところだけを吸収して、残った搾り滓を排泄しているのでしょう。それがどろどろとした暗い穴の中に堆積して発酵して、そしてまた堆積するのでしょう。
そんなもの、おそろしくて仕方ありません。

かつて祖父が聞かせてくれたお話です。
この世界に餓鬼として生まれてしまった者の中には、どんなに飢(かつ)えていても糞便しか食することの出来ない餓鬼がいるそうです。飢餓と苦しみに喘ぎ、臭い臭いと泣き喚きながら、蛆の蠢く糞を咀嚼し、小便や下痢の混じったそれらをぐちゃぐちゃと啜る。だからお不浄とは、餓鬼の禰(かたしろ)でもあるんだと、皺の多い顔を悲しそうに歪めて、話してくれました。


もし、あの穴の中に、そんな餓鬼が居たら。暗い暗い、澱みきった穴の底で、骨と皮だけになって腹が不自然に膨れた者たちが、涙を流して悶え苦しんでいたら。そう思うとあまりにもこわくて、おそろしかったのでした。
だから幼い私が便を垂れるときは、いつも目を瞑っていたことを覚えています。
ただ、隠して、自分の心のそとに追いやる。おそろしいことに対してあの頃の私にできた対処法は、それだけしか無かったのです。

そんなお不浄、そして台所に繋がる扉の向かい側にも、先程の廊下を隔ててひとつの扉があります。つまり玄関から廊下を見ると両側の壁に扉がひとつずつ、向かい合わせて設置されているようなかたちです。左側の扉は台所でしたが、右側の扉は、仏間に繋がっています。
扉を開けると、真正面に貧相な仏壇が見えます。そして仏間に入って右側の壁には襖があるのですが、そこを開けた事はありません。
あまり仏間には入りたくなかったのです。

仏間には、いつも祖母が居ました。祖母はいつも、ぼろぼろの裂織(ふるぎぬを着ています。この辺りでは敷布(しっご)と呼ばれる綿無しの座布団を仏前に敷いて、昼も夜もそこに背中を丸めて座っていました。


時折、祖母は思い出したかのように歌を歌います。痰の絡んだがらがらの声で、何を歌っているのかは殆ど聞き取れないのですが、恐らくは何かの童謡だと思います。調子も外れていて、正直聞くに堪えないものでした。
祖母は毎日毎日、そうやってでたらめに歌を歌っては、一晩中そこで泣き明かすのです。
とうに肌も髪も脂など無く、かさかさに乾いているのに、涙は涸れないのでしょうか。
とうに声も舌も潰されているのに、祖母はまるで駄々をこねる子供のように、おお、おお、と泣き喚いています。
何だか、その声を聞いているとこちらも悲しくなってしまうので、いつも仏間の扉の前を通るときは速足で歩きます。扉一枚を隔てても、その泣き声や叫び声は、こちらに聞こえてくるのです。

そして、それら台所と仏間に繋がる二つの扉を通り過ぎた先。廊下の突き当りには、四枚の薄汚れた襖が立っています。二枚ずつの襖が、真ん中にある太い柱で仕切られているようなかたちです。これらは全て居間に繋がっており、この居間が私の家の中ではいちばん広い場所なのです。


ただ、広いと言ってもたかが知れています。壁には幾つもの茶箪笥が並んでいたり、長持が積み上げられていたりするので、むしろ狭苦しいような圧迫感さえ覚えるほどです。
あの長持には一体何が入っているのかと、幼い私はとても気になっていました。幼子から見たら、木製の重く大きな長持は、それだけで興味を引くものだったのです。何度か父に聞いた事があるのですが、結局教えてくれることはありませんでした。あれの中を見ようとすると、何処から見ていたものか父が血相を変えて飛んできて、私を殴って叱りつけるのです。
何故か、いつもあと少しの所で、気付かれてしまうのでした。

居間にある家具は、それらの箪笥と長持と、あとは部屋の中央あたりに置かれた炬燵だけでした。炬燵は季節を問わず、そのまま出されています。炬燵布団も、ずっとそのままです。もしかしたら何かの刺繍が施されていたりしているのかもしれませんが、今は色も抜けて手垢や汚れが染み付いて、良く分からない肌色と黄土色のまだら模様になっています。


人間の脂と、吐瀉物と、それからこの家の死臭の、とてもいやな匂いがします。こびり付いた吐瀉物が固まって、布団の所々でざらざらとした感触がしました。洗えば良いのに、といつも思うのですが、この炬燵はいつまでもぐずぐずと居間に留まっています。

昔は、この居間でよく遊んだものでした。洒落た遊び道具などは昔からありませんでしたが、ただ走り回っているだけでも非常に愉しかったのです。
私には一歳年下の弟がいました。私にとって年下の家族はその弟だけだったので、私が特に彼を気にかけていたのを何となく覚えています。弟は私と違って運動が出来たため、木登りでも根木打ねんがらうちでも、体を動かす遊びをすれば彼は夢中になり、そしていつの間にか何処かへ行ってしまうのでした。山を分け入って、夕暮れの森の中を探し回ったことも幾度となくありました。
今はもう、見る影もありません。
体を動かすどころか、ものを食むことも出来ないのです。

だから、いつからか母は弟のために、特別に料理を拵えていました。菜と稗と、あとは少しの麦味噌を雑炊のように湯で炊いて、それをぐちゃぐちゃと潰したものだと思います。一匙ずつ冷まして、弟の口に押し込むようにして与えるのです。母は食事の度、芋や米粉の粥を甘みがするからとお腹一杯食べていた嘗ての弟の話をしては、大粒の涙を流しながら笑います。
私はいつも目を逸らしていました。
祖母の姿を思い出してしまうからです。


ただ、矢張り私にとっても、弟は大切な存在だったのです。弟を除いたら、私の家族は祖父母と両親しか居ません。だからこそ私は、どこか漠然と感じていた寂しさのようなものを、弟と話したり遊んだりすることで、紛らわせようとしていたのだと思います。だから、私は。
私の。
私の家族は。

あの女の子は、一体誰なんでしょうか。
考えてみれば不思議です。私の家族構成は先述の通り、祖父母と両親、そして私と弟。この六人家族であり、私の物心が付いたころからそれは変わっていません。
そして私は、あの夕焼けが障子から漏れ出た薄暗い和室の。布団だけが敷かれた殺風景な部屋の、あの記憶を。私の家の記憶だと認識しているのです。


だとしたら。私の家に敷かれた布団に寝かされていたあの子は、一体誰だったのでしょう。
少なくとも、親戚筋ではありません。私が知る限り、親類縁者に女児と言える人は一人もいなかったと思います。親類の中では、私と私の弟が一番に若いのです。その次に年齢が近い人はというと、恐らく一回りほど上になると思います。


では近所の誰かか。いえ、それも恐らく違うのです。そもそも、私の家に親族以外が招かれることなど、殆どありませんでした。だから、誰か別の家の人が来ていたのなら、それを忘れているなんて事はまず無いと思います。
あの記憶は、一体何なんだろう。

一番信憑性が高いのは、記憶の齟齬でしょう。親戚か、或いは友人か。とにかく、自分が会ったことのある誰かの姿を再構成して、自分の記憶の中でのみ作り出した、一種の幻覚のようなものであると考えれば、筋は通るのかもしれません。


しかし。それにしては、記憶が余りにも鮮明なのです。一場面の記憶でしかないのにも関わらず、自分の中で奇妙なほどに生々しい質感を持って、あの光景が居座っています。
畳と畳の間に挟まっていた綿埃。布団の向こうに見える障子のさらに上、長押のあたりから垂れる、蜘蛛の巣の影。掛け布団の端にとまった蝿。
普通の思い出でも中々想起できないような、露骨なほどに詳細なところまで、私は鮮明に思い出すことが出来るのです。

それに。記憶の中での私は、確かにあの子と、会話をしています。
いや、最初に書いた通り、声や音に関する情報は、この記憶からすっぽりと抜け落ちてしまっています。私の中でその場面は、とても、とても静かなものなのです。ただ、何かを話したのだという記憶というか、実感は、しっかりと残っています。
そしてその感触は、わたしにとって、とてもおそろしいものなのです。

例えるなら、夢の記憶でしょうか。
なにか、こわい夢を見た後に目が覚めたとしましょう。心の中には、先程まで見ていた夢の後味が残っている。そんな時、このような事があったからこわい思いをしているんだ、という因果は、多くの場合で抜け落ちてしまっているのです。
ただ、おそろしいという感情だけが、ひとつの実感として残っている。いわゆる悪夢を見た後のような、そんな感じに近いです。
鮮明でありながら、どこかぼんやりとしている。
あれらはまさに、私にとっては、とおい夢のような記憶なのです。

あの子は、誰なんだろう。
あの子と、何を話したんだろう。
私は、何を言ったんだろう。
そして、あの場所は。
障子から赤い夕陽が漏れている、薄暗く狭苦しい和室。どこまでも静かな、あの部屋は。

仏間。
そういえば、あの仏間にある襖の向こうにある、あの部屋は、どうだっただろう。
そう考えたところで、私は自分の考えを打ち消します。
そもそも、私はあの部屋に行った事も無いんだから。祖母がいつまでも座っていて、泣き喚いているのがいやだったんだろう。それにあの和室が仏間に隣接しているのなら、薄っぺらな、汚れた襖越しに、その泣き声が漏れ聞こえている筈じゃないか。そんなに静かな記憶として残っている訳が無い。
そこで。
私は、思い出したのです。
私は、一度だけ、あの襖の向こうに行っています。

少しずつ、とおくにあった記憶を、手繰り寄せる。
あれは。
私が、小学六年生のときの、お盆のことでした。
夏の終わりの、着ていた小衣(まぶり)が背中に貼り付くような、酷くじめじめとした日です。
西の林を越えたところにある、青癩(おんぼ)のお堂から戻ってきた私は、家の玄関の前に立ちます。
私の家は、宮崎県の山あいの、小さな村の中にあります。煤けたような色合いをした木造の平屋で、瓦葺きの屋根の上には所々に大きな石が乗せられていました。


これは私の家に限らず、周りに在る幾つかの家でも同じようなことが行われています。雨風に耐え切れず落ちてしまった屋根瓦の代わりに、手ごろな大きさの石を乗せて対処をするのです。本当は応急処置的な意味合いが強かったのでしょうが、ここらではわざわざ屋根を施工し直すような家の方が珍しいと言って良いと思います。
屋根を直してはいけないのです。

もやもやとした擦り硝子の嵌め込まれた玄関の扉は、建付けが悪いのか強引に力を入れないと開きません。利き手を扉の右側のへこんだ部分に掛け、力を込めて左側に引くのです。
ごとごとと引っかかるような音を立てて、扉は開きます。

蜘蛛の巣が張り、埃を被った玄関が見えました。履いていた草履を脱いで廊下に上がると、ぎしりという床板の軋む音と共に、じゃりじゃりとした感触を裸足に感じます。
廊下の両側の壁には木製の扉がひとつずつ付いており、左は台所とお不浄に、右は仏間に繋がっています。その扉の前まで歩いて、右を向く。目の前には、仏間に繋がる扉が見えます。
何だか、とても静かです。祖母のがらがらの泣き声も、痰が絡んだ歌声も、なにも聞こえません。仏間に人がいる気配すらしませんでした。
案の定、扉を開けても祖母の姿は無かったのです。
薄っぺらい座布団だけが仏壇の前に残っていましたが、その上にいつも背中を丸めて座っている筈の祖母は、居ませんでした。

仏間に入り、そして後ろ手に扉を閉めます。
扉を閉める直前。
台所とお不浄に繋がる扉の向こうから、
かすかに、祖母の泣き喚く声が聞こえてきた気がしましたが。
扉を閉めると、再び何も聞こえなくなりました。

仏間に入って右側の壁には、襖が取り付けられています。
正面にある仏壇や座布団から目を逸らし、右のほうを向き、私は襖の前に立ちます。
襖は居間に繋がるそれとは違い、不自然に感じるくらいに綺麗でした。
汚れていたり、色褪せたような印象は殆ど感じません。


私は。


取っ手に指を引っ掛け、するすると、襖を開きます。
玄関の引き戸とは違い、それは拍子抜けするほど簡単に開きました。
襖の先には。
四畳ほどの、薄暗い和室が広がっていました。向こうの壁は、障子になっています。電気は点いていませんが、不気味なほどに赤い陽光が、ぼんやりと、障子越しに差し込んでいました。その薄暗く赤黒い和室の中心には、色の褪せた、汚くて薄い布団が敷かれていて。
中に、小さな女の子が寝かされていました。

私は、和室の中に入り、襖を閉めて、その布団の前に座ります。
正座をした、その膝の先。拳二つ分くらいの間を空けて、女の子の顔の右目側が手前に見えます。夕焼けが漏れ出た障子が逆光のようになり、顔はよく見えませんでした。
私も、その子も、何も喋りませんでした。しばらく、私はただそこに座っていたのです。女の子はこちらに気付いていないのか、或いはこちらのことをまるで意に介していないのか、私の方を見向きもしませんでした。


とても、静かでした。
恐らくは数分、長くても十分程度だったのでしょうが、とても長い時間が過ぎていったように、私には思えました。そうしているうちに目が慣れてきたのですが、暗闇の中で見たその女の子の顔は、私の知るどんな人とも異なっていました。
記憶違いでは無かったのです。
五歳か、六歳くらいでしょうか。私や私の弟よりも、ずっと小さいのでしょう。
彼女はずっと、目を瞑っていました。
眠っているのでしょうか。
それとも。

私は。
とても、とても長い沈黙のあとで。
その女の子に、話しかけました。
きみは、何処から来たの。

彼女は。
ゆっくりと目を開いて、首だけをこちらに傾けて。
私を見ました。
とおい夢のような記憶の中にいた、ずっと開けたことの無かった襖の向こうにいた、薄暗い部屋の中で敷かれた布団に寝かされていた、私よりも弟よりもずっと若い、私の知るどんな人とも違う顔の、その女の子は。
しろく爛れた口を開けて。

「おまえもつれていこうか」

と、言いました。
私は、あまりにもこわくて、おそろしかったので。
立ち上がって、うしろの襖を開けて、和室を出て。
その記憶を、とおくに隠して、忘れました。
ただ隠して、自分の心のそとに追いやったのです。
幼い私にできることは、それしかありませんでした。
もう、あの子のことを知っている人は、いないのでしょうか。
そう思うと、少し寂しいような気もします。

SCP-536-JPのTALE「ごきずれ」本文

いかがでしょうか。

このお話は恐らく隠坊家のことなのでしょうが、布団に横になっている女の子とは誰なのか。

これを語る「私」とは誰なのでしょう。この話のなかで家の記憶としてはなぜか埋め込まれたかのように感じる違和感はなんなのでしょうか。

これを読むたびに私なりの答えが見えてくると同時に私にも記憶が埋め込まれるかのような気味悪さとわからなかったことが理解できた時のようなある種の知識欲に対しての快感のようなものが押し寄せてくるのです。

この文章はあまりにも描写が緻密で私もこの家に行ったことがあるかのようなレベルで家の間取りや空気感、果ては形まで見えてきてしまいます。

この「がきじろ」「ごきずれ」を作り出した作者様の知識量、構成力、民俗学への造詣、全てがハイクオリティで羨望の眼差しを向けざるを得ません。

このような新しいものが生み出され続けている「未知」という恐怖のジャンル。新しい都市伝説としてこれからも枝葉を広げ続けてほしいと願うひげのくまなのでした。

それではまた。

3

がきじろ

都市伝説、お好きですか?私は大好物です。ひげのくまです。

前に都市伝説についての記事を書きましたが、現代において都市伝説は作りにくい状況にあります。

科学や技術が進み、恐怖の核である「未知」が減り口裂け女や人面犬に本気で怖がることが少なくなったネット社会を逆手にとったジャンルが発生しています。

今回はそのジャンルのなかでもお気に入りのお話。

今回は長くなるから、お暇な時に読んでみてくださいね。

SCP Foundation(SCP財団)

SCP財団」ってご存じですか?

海外発祥で様々な方が考案した怖い話や不思議な話を投稿、閲覧できるデータベース形式のサイトです。

http://scp-jp.wikidot.com/(SCP財団公式サイト)

日本語を含むあらゆる翻訳もされているので多くの方が楽しめるサイトとなっているのですが、その形式の凝り方がかなり革命的なのです。

SCPとは「Special Containment Procedures(特別収容プロトコル)」の略で、放っておくと何をしでかすかわからない人智を越えたモノや現象や存在のことをいいます。

その人類にとって極めて危険なSCPを確保、収容、保護するために秘密裏に結成された組織が「SCP財団」なのです。

公式サイトでは組織がまとめたとされる数千は下らないSCP報告書(SCPの詳細、収容の方法から対処法、収容に至るまでの経緯まで)を読むことができます。

研究所の報告書という形で徹底的に事務的に無機質にまとめられていることで、曖昧な部分が少なくなる代わりに逆に際立つ「未知」の恐怖。

派手さがないのでとっつきにくい方もいるかもしれませんが、報告書を読んで理解できたときの興奮はえもいわれぬ感覚が沸き上がってきます。

さて、海外発祥のSCPですが、各国に支部があります。その中には日本も含まれており、日本独自のSCPも収容されているのです。

その中でも一際目を引くSCPとTale(対象のSCPを題材にしたストーリー)がありますので、ご紹介させていただきます。

SCP-536-JP

SCP-536-JP「8月16日」に挟まれた写真

http://scp-jp.wikidot.com/scp-536-jp(SCP財団の公式ページ)

SCP-536-JPは無地の厚紙による装丁がなされた右綴じの日記帳です。表紙には黒色の油性マジックインキで「いた」と書かれており、材質は普通の紙のようです。

もちろんただの日記帳ではありません。その日記帳における特定のページの内容を視認した場合、読者は限定的な記憶障害を発症し、その内容を長期的に記憶する事が不可能になります。

つまりこの日記帳を読んだときにいくつかのページ内容だけは読めるのに思い出せない、目を離した瞬間に内容を忘れてしまい誰かに伝えたりすることができなくなってしまうようです。

SCPの界隈では反ミームと表現されるよ。
読めるし見れるのに目を離した瞬間から忘れていく不思議な特性。
わかりやすく言うと夢みたいな感覚。

SCP-536-JPは、1992年6月に宮崎県児湯郡で行われた古書市において販売に出されていました。それを買い取った地元の住民が日記の内容を覚えていられない記憶障害を訴え、宮崎市内の大学病院を受診しました。

そのカウンセリング記録を不審に思った財団エージェントが調査に赴き、SCP-536-JPとその異常性が発見・収容されるに至りました。

下記は日記帳を買い取った住民が大学病院でのカウンセリングを受けた記録です。

ええ、私は古本の市場なんかに行って安くで色んな本を買うんが好きだったとですよ。特に、個人の方の作りんしゃったスクラップブックやら、日記帳なんかを、よう買って読んどりました。

そんな日記帳なんか売られとるんか、とお思いんなるかもしれませんね。これがねえ、意外と面白かとですよ。例えば、私みたいに昔っから本を集めるんが好きやった方が居ったとするでしょう?そして、そん方がお亡くなりになる。すると、書斎なんかに幾つも並べられとる本棚やら、そこにあるコレクションやらは、まあ遺品って事になりますわな。

大体、そういう遺品はそのまま放っぽられたり、御遺族が理解のある方やったら地元の図書館にでも寄贈したりするんでしょうが、たまに本棚ごと古本屋に売り払われる事があるんですわ。その人の身寄りが無かったり、あんまし本に興味のある方が周りに居らんかったりする時なんかに、こんだけ大量の本ば捨てるのもっちゅう事で、誰か興味のある人に買ってもらおうとするんですわな。

するとですね、その本棚にある大量の古本に交じって、個人的な日記とか、そういうのが出てくるんです。それをわざわざ仕分けるのも面倒だってことで、市場の人もいくらかの値段を付けて売りに出すんですよ。

ええ、意外とそういうのを集める好事家も一定数居りますよ。それでこの前も、児湯の方で古書市があったからと見に行ったんですが、その中に掘り出し物がありましてね。昭和の終わり頃ぐらいに書かれたもんです。
日記って言いましたら、何月何日にこんな出来事があったとか、こんな話をしたとか、大体はそんなもんでしょう。だけども、それは少し変わっとったとですよ。

多分あれは、日記を書いとる人の、家族やら親戚筋です。その日記にはですね、自分の家族や親類の、その日にあった不幸な話ばっかりが、ただただ、ずらあっと日記帳に書かれとったんですよ。

いや勿論、不幸って言っても大体は些細な事ですよ。誰々が炊事場で菜を切っとったら包丁で指を切ってしもうたとか、子供どうしで家ん中を走り回って遊んどったら一人が机の角に頭をぶつけて泣いたとか、そんな事です。でも、毎日欠かさずそうやって書いとるんです。毎日ですよ?いくら何でも、薄ら寒く感じますでしょう。それにどれだけ家族が多いったって、そげな毎日も何か起きますか。

中には本当に恐ろしか内容もあってですね、つまり救急の人が出張ってきたというふうな、もう見てるだけで悲しゅうなる事もたまに起こっとるわけですよ。でもそん人は可哀想だとか書くこともなく、ただあったことだけを日記にしとるんです。

私も、こんなのは滅多に見ないもんですから、野次馬根性といいますか、何度もその日記帳を読み返しとるんですよ。でもですね、もう読むたんびに、背筋が寒くなるページっちゅうんが何個かあるんです。というのも、その内容がですね、さっき言ったような怪我とかに纏わることじゃなくて、何というか、奇怪なんですよ。

というのも、そんなことが現実に起こるんか、というような内容なんですね。それまでの内容とは明らかに違うといいますか、そんなことが起こる原因もよく分からん、とにかく不気味な出来事なんです。普段やったら私も多分、そんなことがあるわけないやろうと言うと思うんですが、そん人はそれまでずうっと、さっき言ったような出来事だけを書いとるので、もしかしたらこれも本当にあったんじゃないかって思えてくるとですよ。そもそもそれはただの日記な訳ですから、わざわざ嘘を書く必要も無かでしょう。

そいで、その内容を誰かに言おうとするとですね。どうしても、それを思い出せんとですよ。

SCP-536-JPには、昭和51(1976)年6月15日から同年8月17日までの日記が記録されています。

その内で先述の異常性を有しているページは6月21日、7月19日、8月5日、8月17日のものです。

下記はSCP-536-JP内に記述されている文章の抜粋ですが、記憶障害の異常性が確認された日付のページについては記載を省略しています。

6月15日
和子が母屋の扉に指を挟んで流血し、爪が黒くなって腫れる


6月16日
明美が発熱し嘔吐する 浩二が臭いと言い明美を殴る


6月18日
裏の畑に猪がでる 唐芋がいくつかくわれる


6月20日
和子が階段の手摺に目をぶつけ、病院へ行く


6月23日
明美の歯が腐る


6月29日
タエが玄関にて転び、上がり框(がまち)に頭をぶつける


7月5日
洋子がだれやみの酒をこぼし、浩二に耳を蹴られる

宮崎県児湯郡西米良村などに伝わる民俗語彙「ダリヤメ」の転訛であると思われるよ。「晩酌」や「焼酎」を意味する言葉として今でも残っており、大分県などにも同じような語彙がみられるね。


7月12日
ぬか床に蛆が涌く


7月27日
たみ子が芋がゆの入った器を膝に落し火傷する


8月4日
目が合った


8月7日
先日の夕刻から洋子に狗(いぬ)が懸かり、夜毎に気狂いのごとく哮(たけ


8月11日
信雄がフケジロに遭ったと泣きだす

「外精霊(ふけじょうろう)」を指していると推測。九州各地において無縁仏を意味する民俗語彙として残っているけど、特に宮崎県全域では盆にやって来る餓鬼の霊を指してこのように表現するよ。


8月14日
明美が脛振にあい、左目を潰される

成城大学民俗学研究所が出版した『山村採集手帖』によると、児湯郡の西米良村においては夜遅くに村の男性が密かに女性のもとを訪れる、所謂「夜這い」を表す民俗語彙としてこの語が用いられているよ。


8月16日
嘘をつかれる

このページのみ、文章だけでなく写真が貼り付けられていた。裏面には鉛筆によるものと思われる筆跡で「あわせて」と殴り書きされている。この写真には特に異常性などが発見されなかったため、現在はSCP-536-JPと共に収容庫内で保管されている。

SCP-536-JPが売りに出されていた古書市の記録や名簿などから、この日記を記述した人物が宮崎県児湯郡に住む「穏坊(おんぼう)」家の成員である事が特定されました。

財団による穏坊家の人間へのインタビュー調査が計画されましたが、この計画時点で同家に属する人々が全て何らかの理由で死亡或いは失踪していました。

そのためSCP-536-JP研究チームは調査・研究方法をインタビューから周辺の地域コミュニティの参与観察に切り替えました。

下記は大学から派遣された地理学の調査員と身分を偽って
同村の民宿へ滞在した財団職員の観察記録の抜粋です。

この村には、「餓鬼」に纏わる信仰が色濃く残っているように思われる。いつまでも外で遊んで家に帰ろうとしない子供に対して親は「餓鬼精霊(ガキジロ)が来るぞ」と脅し、畑の作物などが荒らされると「ガキサンが入った」と表現する。嘗て飢饉や凶作が多く発生した地域にはこのような伝承が多く残ることが珍しくないため、その事自体は不思議には思わなかった。

しかし。この村の一部地域には、他ではあまり見聞きしたことの無い風習があったことが判明した。その地域に住んでいる人々は、餓鬼に対して施しをしなければならないのだという。

そもそも餓鬼にも様々な解釈があるのだが、一説には餓鬼は3種類に大別出来るとされる。残飯などを食べる者、何も食べられない者、そして人の膿や涙を食べる……というよりも、それしか食べることが許されていない者、という分類である。この村では、餓鬼と言えば専ら一番最後に書いた者の事を指す。
では、それに対して、一部の村民はどのように施しを与えるのか。

餓鬼が啜る為の膿や涙を、様々な方法で調達しなければならないのだそうだ。

勿論、今の時代にも残っている風習ではないとの事であった。それこそ飢饉などが発生しており生活もままならなかった昔に、口減らしも兼ねて行われたものなのだろう。実際、私たちが滞在している時にそのような事が行われたという話は、当然のことだが一切聞いていなかった。

しかし日記の記述や、あの名字を話に出した時の彼らの顔を見ていると、どうしても、拭いきれない違和感のようなものを感じざるを得なかった。
あの家族は一体、何を経験したのだろうか。何故、私たちはそれを、覚えていられないのだろうか。

見えてくるがきじろの存在

以上がSCP-536-JPの報告書と説明になります。

取っつきやすいように説明部分に原文に少しだけ変更を加えてしまいました。

原文はリンク先にあるので是非見てみてください。もっと無機質であくまで報告書のフォーマットになっているのが不気味さをそそります。

さて、ここまでの内容では財団によって回収された日記帳の報告書ですが、しっかり読み込んでみると見えてくる怪しげな存在がいます。

  • 「隠坊家」の写真

SCP-536-JPには不可解な部分が多々見られます。その中のひとつが8月16日の日付に貼られていた写真。

8月16日には「嘘をつかれる」という記載と共にこの写真が挟んでありました。

こちらの写真の左側、黒いシャツを着た女の子と真後ろにいる女性、この二人は左目がいびつになっているのがお分かりいただけるでしょうか。

恐らく日記の6月20日に階段の手すりに目をぶつけた和子さん、8月14日に脛振(夜這い)に会い左目を潰された明美さんとなりそうです。

さて、この8月14日ですが、一体誰が夜這いをしたのでしょう?

  • 記述できない反ミーム特性

日記を読み返してみると明らかに人名を出している場合とそうでない場合があります。

8月4日、8月14日、8月16日の人名がない日、明美さんを夜這いし左目を潰した正体は餓鬼だったのではないでしょうか。

なぜわざわざぼかすように名前を出さず餓鬼だと記述しないかというと、前述した餓鬼の持つ「反ミーム」のためです。

餓鬼の名前やそれだとわかるものを記述してしまうとその部分は書いてあるが記憶できない、読んだ先から忘れてしまうという特性を得てしまうのです。

なぜ餓鬼が反ミーム性を持っていると思ったかというと、報告書と日記の購入者のインタビューにて発覚した記憶できず話せない日付「昭和51(1976)6月21日、7月19日、8月5日、8月17日」は全て仏滅であるからです。

仏滅は仏教においての凶日、ひいては六道のひとつである「餓鬼道」に落ちた餓鬼にとって活動しやすかったのかもしれません。

  • 嘘をつかれる

財団の観察記録では「隠坊家」の方々は全員失踪或いは死亡しておりますが、きちんと施餓鬼をして供養している様子が日記からも見て取れます。

ではなぜきちんと供養していたのにも関わらず「隠坊家」は滅ぼされてしまったのか。

財団の観察記録を読んでいると理由がなんとなく見えてきます。

日記とカレンダーを突き合わせて見てみると、怪我をしている日付はお盆となります。そしてどの怪我も涙や血、膿などを出すほどの怪我。

これを見るに隠坊家は決まったルールの元、施餓鬼を行い餓鬼を供養していたのだとわかります。

しかし実際には供養できておらず餓鬼により一族は殺されてしまいました。つまり餓鬼の供養方法は間違えていたということです。

その証拠として写真に餓鬼が写り込んでいます。これを見た日記帳の主が嘘をつかれたと気付いたわけですね。

では一体誰に嘘をつかれたのでしょう。

え名前を出さないのではなく出せなかったのではないでしょうか。施餓鬼というこの地域に伝わる変わった風習を「隠坊家」に教えた者すらも餓鬼だったのだとしたら、この村はすでに餓鬼の支配に落ちているのかもしれません。

ごきずれ

ここまでSCP-536-JPの読み取れる部分を書き出していますが、実はこの話には続きがあるのです。

同じ作者様の書いたTALE「ごきずれ」を合わせて読むことで更にこのSCP-536-JPへの造詣が深くなります。

次の記事はTALE「ごきずれ」と、そこから見えてくる解釈を書いていこうと思います。

かなり長くなりましたが、興味があれば是非ご覧ください。

それではまた。

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妖精という自然現象に人が挑む映画『トロール』

皆様、パニック映画は好きですか?

キラー○○系は大体踏襲済み、ひげのくまです。

『何か巨大なものが突如動きだし世界がパニクる』なんて映画の導入はこれまでも大量に存在しております。

その「巨大なもの」は様々ですが今回はその中でも恐ろしいだけではなくなんだか物悲しい映画をご紹介。

北欧民話の襲来『トロール』

ノルウェーの山間部で、環境を考慮しないトンネル爆破により長い眠りから呼び起こされた古代の存在。首相の科学顧問に任命された古生物学者が、壊滅的な大惨事を阻止すべく未知への対処にあたる。その存在はおとぎ話として語られてきた空想上の生き物だと言われていた

2022年12月1日よりNetflixにてローアル・ユートハウグ監督による『トロール』(原題:Troll)が配信されました。

ローアル•ユートハウグ監督といえば『トゥームレイダー ファースト•ミッション』や『コールドプレイ』などの作品を手掛けていますね。

ノルウェーの首都「オスロ」とオスロから北へおよそ500km進んだ場所にそびえる「ドブレ山地」を舞台に人類の脅威となりうる巨大な伝説上モンスターとの戦いを描くファンタジーアクション映画となっております。

広大な自然と肩を並べるサイズの巨獣トロール。地面に溶け込む高いステルス性能を持ち近代兵器をものともせず確実に首都へと迫る目的とは…

とんでもなく雄大な山

混乱する政府やノルウェーの人々、とにかく集められた各分野の科学者たち、全く見えない解決策…なんともどストレートな直球パニックムービーでお好きな方はとてもワクワクしながら楽しめる作品となっておりますね。

トロールをより楽しむフレーバーテキスト

さて、ここまで映画『トロール』の簡単な紹介をしました。

トロールに詳しくなくとも楽しめるのですが、元ネタであるノルウェー民話のトロールを知ればより映画中のフレーバーテキストから漂うワクワクな香りを感じ取れると思われるので色々と綴ります。

あ、ここからは少し映画のネタバレも含みますので読み飛ばして大丈夫ですよ。でもトロールのことを知ってからもう一度映画を観ると一回目より味がでるかも。

綺麗な瞳が印象的。

トロールの嗅ぎ分けた匂いの謎

映画『トロール』には劇中何度かトロールがキリスト教を敵視しているような場面がでてきます。

主人公ノラ•ティーデマンの父親であるトビアス•ティーデマンはトロールが姿を見せなくなったのはノルウェーのキリスト教化が原因だと言っています。

さらに劇中で兵隊たちが逃げ惑う際に聖書を唱えた兵士をトロールが即座に補足し補職してしまうショッキングなシーンも。

その時もトビアスは「血だよ」と言います。

トロール本編では全然関係なさそうなキリスト教がなぜ?となるところですが、これには歴史が関わっているようです。

元々ノルウェーを含むスカンディナヴィアは北欧神話(ノルド人に伝わる民話伝承)を信仰していましたが西暦1000年ごろにキリスト教化が強くなっていました。

1015年、ノルウェー王のオーラヴ2世によりキリスト教以外の異教の神殿が破壊され、そこに教会が建てられるようになりました。

恐らくこの破壊された神殿のなかにトロールを祀るものも入っており、キリスト教伝来に伴い信仰の対象としての立場を追いやられたためにトロールのキリスト教へ対する怒りが炸裂しているのでしょう。

大きな鐘を吊るした作戦の意味

ノラ主導でトロール撃退を進めていた際に惜しくも失敗してしまった作戦に『ヘリから鐘を吊るして囲む』というシーンがでてきました。

あの作戦に対して劇中では特に説明がなく、日本人としては「なんだあの作戦は?」となった人もいるかもしれません。

しかしトロールのおとぎ話が浸透しているノルウェーの人からすれば作戦のひとつとして納得するシーンでもあるのです。

というのもトロールは騒音を嫌い教会や鐘の鳴る場所から離れて暮らしていたという一面が語り継がれているから。

劇中でもトンネル爆破で飛び出すほど勢いよく起き上がったり、移動中に犬の吠えた家を蹴り飛ばしたりしているので大きな音を嫌うトロールの逆鱗に触れていたのかもしれませんね。

トロールはただ帰りたかっただけ

劇中のトロールはドブレ山地から起き上がった後真っ直ぐに首都オスロへと向かいます。

こちらは劇中で語られていますが、トロールのかつて住んでいた住居が地下へ保管されており同族の骸もそのままになっています。

トロールはその昔、オスロへ人が住む以前にはそので家族と住んでいたと思われます。

大きな音により目が覚めた彼はただかつての家に帰ろうと動いていたところ道々に既に人がいたので脅威とされてしまったわけですね。

途中で聞こえるトロールの声も寂しげで私は聴いていてなぜかしんみりしてしまいました。スーパーで迷子になってしまった子供の泣き声のようで。

しかし映画の最後にはドブレのトンネル爆破跡地にてなにかが蠢く気配と例の鳴き声が。

もし起き上がってしまったら次はもっと双方うまくやれることを祈るばかりなラストとなった次第です。

トロールを扱った創作物たち

令和の時代に復活した巨大な妖精『トロール』は人々を恐怖と混乱に陥れましたが、実のところノルウェー始めとするスカンディナヴィアではトロールは大人気のキャラクターとなっております。

テオドール•キッテルセン

トビアスも触れていた「キッテルセン」という名前があります。

このキッテルセンとはノルウェーの画家「テオドール•キッテルセン(1914年没)」

風景画を得意とする一方、トロールなどの民話にでてくる妖精もよく描いておりトロールの人気はキッテルセンが支えていることも十分感じられます。

テオドール•キッテルセン作「自分の年齢を考えるトロール」

ノルウェー トロルのふるさと』として日本でも出版されている絵本の挿絵はキッテルセンが描いたものとしてとても有名。是非一度目を通していただきたい一冊です。

絵本「ノルウェー トロルのふるさと」テオドール•キッテルセン書き下ろし表紙絵
民族学者であるトビアスは絵の違和感を指摘していました。

三びきのやぎのがらがらどん

絵本「三びきのやぎのがらがらどん」表紙

ついでこちらも劇中でアンドレアスが名前を出した『三びきのやぎのがらがらどん』という絵本にもトロールが出演します。

実はあの絵本ノルウェーの民話だったのです。

この絵本は日本でも有名なので読んだことがある人も少なくないのではないでしょうか。

ロード・オブ・ザ・リング

J.R.R.トールキン作「ロード・オブ・ザ・リング」

ロード・オブ・ザ・リング」にもトロールは出演しています。人気者は引っ張りだこですね。

オログ=ハイという名前で登場し巨体に鎧を着込み重投石器などを運搬し、中つ国のミナス=ティリスを窮地へと追いやっていました。強い。

日中でも動き回っていましたがサウロンの魔術により空が曇っていたので活動可能だったようです。

国民に愛される妖精トロール

創作物では逞しい敵にもかわいいおどけ役にもなれる魅力いっぱいのトロール。

スカンディナヴィアへ赴けば大抵のおみやげ物屋さんで様々なトロールグッズが取り扱われています。

ノルウェー、オスロのお土産物屋「The Troll Shop」より

日本の妖怪のように国民に浸透しどこか怖がられつつも愛され続けるトロールは北欧の広大な大地から生まれた素敵な存在なのでした。

映画『トロール』ではかなり恐怖を振り撒いていましたが、民話伝承に伝わるかわいさも是非知っていていただきたいと思う所存なのでした。

それではまた。

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東北の民話伝承体験ゲーム

青森産りんごは甘くておいしいですね、ひげのくまです。

年が明けて一年が残り98%となりましたね。もう2%過ぎたことにびっくり。光陰矢の如し。

その話はおいといて、なにやらとても興味深い情報を聞きましたので今日はそのお話。

畏怖を祓い吉祥に祈る

『大歳ノ島』公式サイトより

東北芸術工科大学デザイン工学部映像学科教授の鹿野 護氏が、東北の民話伝承を基軸としたオープンワールドゲーム「大歳ノ島」を作成しました。

そのゲームの情報をツイッターに公表し、とても大きな反響を呼んでおります。

大歳ノ島は、架空の島の正月行事を描いた作品だそう。

仮面を被った4人の異形が山頂で出会い御供物をするとき、島は生まれ変わる。

『大歳ノ島』公式サイトより

そんな言い伝えを体験する物語になっているようです。

世界中で使用されているリアルタイム3D制作ツール「Unreal Engine 5」で制作されており、PVを鑑賞した際の映像のリアリティはまるで実在する大歳ノ島で撮影したのかと見紛うほど。

2022年の東北芸術工科大学の卒業修了研究・制作展にて展示されていたとのことで、見学に行けなかったことを心底後悔しました。

ツイートによると、漁師(鮭の章)、稲作(米の章)、塩田(塩の章)の出身のキャラクターにそれぞれの地域の特産物と吉祥、そして畏怖を設定することで、ビジュアルを具体化しやすくなったとのこと。

米の章はキツネ(稲荷)、鮭の章はオクズ(タツノオトシゴ)、塩の章は鳥(セキレイ)の仮面を付けることでどの作物を司っているかわかりやすいことがデザイン的にもとても注目すべき点ですね。

異形たちの服装も独特ですが簑をベースとした衣装を被ることで雪の多い東北地方で行われていることがスッと入ってくるのです。

白の簑って神秘的で素敵。

マレビトの来訪

サイト「神道 神社」様より『大年神

年越しは大歳神(オオトシノカミ)という神がやってくるという民話伝承は日本各地に伝えられています。

古くは『古事記』にも記載されていて、豊穣を司る来訪神としての姿と『お稲荷さん』で有名な宇迦之御魂神(ウカノミタマ)の兄であるとされています。

他にも穀物の神であるという説や大和建国の神、饒速日(ニギハヤヒ)と同一視されている説もありとても力のある神様であろうことが伺えます。

そういった伝承も『大歳ノ島』のピースになっているのかもしれませんね。

静岡の別雷(ワケイカヅチ)神社にも『大歳御祖皇大神(オオトシミオヤスメラオオカミ)』として祀られております。

畏怖のデザインがとても魅力的

大歳ノ島』では章によって畏怖と吉祥が違います。

日本の神は元々自然を対象にしているものが多いので、畏怖はそのまま自然の脅威を表しています。

鮭の章なら漁師なので津波や地震を『海坊主』として、米の章なら稲作なので強い風や飢えを『カマイタチ』として、塩の章なら陸地での交易なので長雨や獣を『鬼火』として、それぞれの畏怖の対象を目に見える形で直感的に表現しているのが本当にすごい。

『大歳ノ島』公式サイトより
『大歳ノ島』公式サイトより
『大歳ノ島』公式サイトより

決してひとの力では抗えない力強すぎる自然、まさに畏怖そのものを視覚的に理解できる怖さと美しさ、惚れ惚れするデザインです。

出来ることなら私もこの身で経験したいと熱望するほどに怖くて綺麗で魅力的なグラフィックとなっております。

どのような媒体であれ、発売されたら100%買うと断言できる世界観と視覚と発想。あまりに魅力的でしたのでついぞブログに載せてしまいました。

私も大歳ノ島へ行って自らの身で行事を実体験してみたいです。

いずれ私も操作できるようになるといいなぁ…クラウドファンディングとか応援できる形で貢献したいなぁ…

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1000年以上語られる火力最大級の恋

今年の冬は寒いですね、富士宮はまだ雪が降っていないだけ救われています。

さて、季節は寒くとも12月は恋とお菓子の季節ですね。皆様は素敵な恋をしていますか?

本日は江戸時代に広まった大昔の悲哀のお話。

1000年経っても潰えぬ恋の炎のお話

Wikipediaより『清姫日高川に蛇躰と成るの図』

和歌山県は道成寺に伝わる『安珍清姫物語』をご存じでしょうか。

延長六年(929)、奥州(現在の福岡県)から熊野詣に来た僧(山伏)の安珍。彼はかなりのイケメンだったそうです。

彼は真砂庄司(土豪のこと。特定の土地を持つちょっとよいお家)に宿を借りた際、この家の娘である清姫に一目惚れされました。
清姫の情熱は強く、夜這いを決行したり思いきりがよいお嬢さんのようでした。

この時清姫は13歳、少女にしてこの行動力は凄まじい想いの強さですね

この熱量を断りきれない安珍は熊野からの帰りに再び立ち寄ることを約束してしまいました。

しかし彼は修行僧の身であるゆえに欲を廃さねばいけないので、清姫に会いに行かず立ち去りました。

約束の日に安珍は来ないので、欺かれたことに気付いた清姫は旅人の目もかまわず安珍を追い求めます。彼女を見た旅人たちは驚きを口にします。
そこなる女房の気しき御覧候へ(あそこにいる女性をみてごらんなさいよ)」
誠にもあなあな恐ろしの気色や(あらまぁ、これはとても恐ろしい雰囲気)

日高川まで追いすがり、やっと安珍に追いついた清姫
安珍は誤魔化しの王道、人違いを使いますがここまでの情熱を持って追ってきた清姫を騙しおおせるはずもなく烈火のごとく激怒

おのれはどこどこ迄やるまじきものを(お前はここまでするべきじゃない!)
と困った安珍は「南無金剛童子、助け給え」と祈りました。

金剛童子への祈りで目がくらんだ清姫は安珍を見失いますが、これにより更に激怒
清姫は怒りと悲しみに溢れ、観音菩薩へ祈りました。
「先世にいかなる悪業を作て今生にかかる縁に報らん。(前世になにしでかしたら今がこんなに報われないの!)
南無観世音、此世も後の世もたすけ給え」

日高川にまで逃げた安珍は船で対岸に渡ります。
一方清姫側は船頭が船を出そうとせず川を渡れません。よほどの形相だったのでしょうか。
遂に感情が爆発した清姫は一念の毒蛇となって川を泳ぎきってしまいます。

ほうほうの体で道成寺に逃げ込んだ安珍とその焦燥を見てかくまう僧。
その鐘を御堂の内に入れよ、戸を立つべし(表の釣り鐘をお堂のなかにいれて鐘の中に隠れておくれ)
しかし女難の珍客に同情しない僧もいたようです。
ひきかづきて過ちすな(隠れて逃げんなよ)」「ただ置け、これほどのものを(これはただじゃおかないだろうなぁ)

伝土佐光重(土佐派)画『道成寺縁起』

この蛇、跡を尋ねて当寺に追い到り・・・
鐘を巻いて龍頭をくわえ尾をもて叩く。
さて三時余り火炎燃え上がり、人近付くべき様なし。
清姫安珍の隠れた釣り鐘にその巨大な蛇の体を巻き付け怒りに任せて炎のを吐きます。3時間以上もの長時間鐘ごと熱された安珍は焼け死んでしまいます。

Wikipediaより『道成寺縁起』絵巻(部分)

安珍が焼死したあと、思いは遂げられなかったものの怒りを発散した清姫は道成寺を去り、帰りしなの八幡山の入江あたりで入水自殺してしまいました。

畜生道に墜ちて蛇の姿で転生した二人は道成寺の住職の元に訪れ法華経による供養を願います。住職の唱える法華経の功徳によって成仏した二人は天人の姿で住職の現れ、熊野権現観音菩薩の化身だった事を明かしました。

一途すぎる少女のバーニング•ラブ

最後は法華経のありがたさを讃えて終わる仏教の縁起物ですが、清姫の執念たるや背筋が冷える様相ですね。

個人的には断りきらず中途半端なまま逃げようとした安珍にも非があるという気持ちと、ここまで慕われるのは少し羨ましさも覚える限りです。

今も昔も恋の炎は変わらず強火なのだなぁと確信できるお話でした。昔から恋物語は人気があったんですねぇ。

一途な少女のバーニングクッキー

絵巻物としても人気を博し、現在でも語り継がれる悲しい恋物語ですが実はクリスマスにぴったりの関連アイテムが売っているのです!

クッキーの型を販売しているサイト「SACSAC」様より、「焼死した安珍クッキー型」が販売しています!かわいい!

恋慕している方に安珍クッキーを焼いて、清姫の話を聴かせながら食べさせればきっと想いも伝わるはず。

恋もクッキーも熱い方がおいしいですね。

それではまた。

Wikipediaより焼け死んだ安珍
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江戸時代とか動物の絵とか(ワンコ編)

猫が好きなのに猫アレルギー、ひげのくまです。

皆様は動物がお好きですか?私は好きです。

現代において人と共に生きる動物はかなり多種多様になりましたが、やはり犬や猫はメジャーな家族として多くのご家庭がお迎えしていることと思います。

さて、こと日本において犬を家族として扱い共に暮らしていたのはおよそ10000年以上前の縄文人まで遡り、『日本書紀』にも信州の山で迷子になっているヤマトタケルを白い犬が道案内してくれるというお話があることから日本人はかなりの時間を犬と過ごしてきていると言えます。

縄文時代の遺跡から見つかった犬の骨は丁寧に埋葬されており、当時の人たちが犬をとても大切にしていたことが伺えるのです。

江戸時代に訪れたワンコブーム

太田美術館より歌川国芳の「御奥の弾初」

江戸時代に入り政治や社会が安定した頃、上流階級が飼育していた動物を庶民でも飼育できるようになり、飼育書「犬狗養畜伝(けんくようちくでん)」がベストセラーになるほどのペットブームが訪れます。

そんな大ペット時代はペット画家も多く輩出しました。その中からお気に入りの画家さんと絵をピックアップして紹介しようと思います。

江戸時代の偉大なる動物画家

伊藤若冲(いとう じゃくちゅう)

Wikipediaより若冲居士像

1716年(正徳6年)、京都の錦小路にあった青物問屋「枡屋」に生まれた商売人。

ちなみに問屋は生産者や仲買、小売の商人に場所を提供して販売させ、彼らの関係を調整しつつ売場の使用料を徴収する流通業者(現代でいうショッピングモールの運営的な感じ)

40歳に早々と隠居生活を始めて独学で絵を学び絵師として自立。

後世に残る神社仏閣の絵画や動物画を何点も納め、85歳に亡くなるまでの間、筆を置かなかった生粋の絵師でした。

そんな伊藤若冲が描いた動物絵のなかで一番好きなのは「百犬図(ひゃっけんず)

様々な模様の子犬たちが思い思いにじゃれあったりくつろいだりしている、まさに犬尽くしな名画。

筆で描いたとは思えないふっくらした丸みがかわいいですね。

ちなみに「百犬図」との題名ですが実際の数は59匹でした。かわいいですね。

長沢芦雪(ながさわ ろせつ)

1754年(宝暦4年)に丹波国篠山(現代の兵庫県)で生まれた江戸時代の絵師。

同じく江戸時代の絵師、円山応挙の高弟。伝えられている性格は奔放で快活。我の強そうな美術家然とした感じですね。

写生を重視した師とは対照的に大胆な構図や斬新なクローズアップを用い、奇抜でウィットに富んだ画風を展開しました。

伊藤若冲と並んで「奇想の絵師」と呼ばれた内の一人です。

和歌山県串本町にお寺、無量寺に描かれたふすま絵『虎図』など(この絵の詳細は次のお話で書きます)、大きな障壁画を多く手掛けています。

そんな長沢芦雪が描いた一番好きな動物画は「白象黒牛図屏風(はくぞうこくぎゅうずびょうぶ)

師である円山応挙の写実重視な卓越した技術の牛と象を六曲一双(6枚のふすまサイズ)を1枚の絵で仕上げる巨大絵画。

この絵には長沢芦雪の機知性もよく見られる大胆な構図となっており…ワンコがいない?いるんですよ。ここに。

牛の巨大さを表すために描かれた仔犬

どうですか、このなんともいえない抜けた顔と姿勢。かわいいですね。

筆だから出るふさふさ感と芦雪犬特有のふっくら感。かわいいですね。

円山応挙(まるやま おうきょ)

円山応挙肖像『近世名家肖像』より

1733年(享保18年)に丹波国南桑田郡穴太(あなお)村(現在の京都府亀岡市曽我部町穴太)で生まれた農家の次男。

10代の後半には京へ出て、狩野探幽の流れを引く鶴沢派の画家、石田幽汀の門に入っています。(この辺りもそのうち書きたいなぁ)

20代の修行期の頃には「四条河原遊涼図」、「石山寺図」、「賀茂競馬図」、「円山座敷図」、「三十三間堂図」など京都風景のいわゆる「眼鏡絵」を制作しました。

眼鏡絵とは鏡に写した絵をレンズを通して覗くことで立体に見える浮世絵のこと。

Wikipedia『眼鏡絵』より

そのため原画は左右反転して描かれていたようです。なんとも手間のかかりそうな技術に感嘆。さすが歴史に名を残す名画家です。すごい。

余談ですが、円山応挙は足のない幽霊の絵を描き始めた画家とも言われています(諸説あり)

そんな円山応挙の描いた動物画で一番好きなのは「朝顔狗子図杉戸(あさがおくしずすぎと)

現在は東京国立博物館応挙館に展示されている、廊下を仕切るための杉戸へ描かれた仔犬の絵です。

コロコロしている子犬たちがもっふもふにじゃれている姿がとてもかわいいですね。

長沢芦雪の師であることを伺わせる丸いタッチの子犬の姿やうるうるな瞳がかわいいですね。

これからも仲良く。

いかがでしたか。

江戸時代の動物絵師の魅力伝わりましたでしょうか。

犬と人の歴史は長く、共に進化していった古きよき家族と言えそうです。

興味がある方は是非これらの絵が飾られている美術館や神社仏閣へ足を運んでみてくださいね。実物は写真とちがう迫力があります。かわいいです。

次回はニャンコ編にしようかしら。

それではまた。

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道祖神とかアラハバキとか

金子一馬画集は宝物、ひげのくまです。

前回の記事で古代ケルト文化を取り上げた映画の話を書きましたが、今回は趣味全開な日本のお話。

D×2真•女神転生リベレーションよりアラハバキ神

遮光器土偶の神?

日本には多くの神様がいて、様々な形の信仰があります。その中でも日本最古の神として祀られているのが『アラハバキ』(漢字による表記は荒吐、荒覇吐、荒脛巾、とまちまち)という神です。

和田文書を代表する文献「東日流外三郡誌」によればアラハバキは石神信仰という古代信仰を引き継いだ神で、見た目は遮光器土偶に酷似しているとのこと。

奈良時代に編集された歴史書「古事記」「日本書紀」「風土記」にすら名前が登場しない謎の神なのだそう。

塞の神としてのアラハバキ神

諸説あるアラハバキ神の中でも富士宮住まいの私は塞の神説に興味が引かれました。

静岡県富士宮市は東海道筋の影響か道祖神を祀っている場所が287ヵ所あり、富士宮市内を軽く散策するだけでも数基みつけることができます。

道祖神は塞の神(さえのかみ)とも呼ばれ、町外れに祀り村の外から侵入する災いを防ぐ神。

アラハバキ神も塞の神としての側面が見られるそうで荒脛巾(アラハバキ)という字の脛巾はすね当てにあたる装具であるがために「腰から下のご利益」や「旅の安全」を司っている説があります。

氷川神社のアラハバキ神

埼玉県さいたま市にある2400年以上の歴史をもつ古社、武蔵一宮氷川神社にある門客人神社(もんきゃじんじんじゃ)にもアラハバキ神が祀られています。

門客人神社の「客人神(まろうどがみ)」とは元来祀られている神に対して外から来た客神として祀られている神様の主客が転倒したもの。

門客人神社の祭神は足摩乳命(あしなづちのみこと)と手摩乳命(てなづちのみこと)。

こちらの二神は元々客人神であり、主客転倒して地主神になったといわれています。

そして主客転倒前の元々の地主神がアラハバキ神と言われているのです。

今の時点でまだ訪れていないため写真がないことが悔やまれます。いずれ足を伸ばして参拝させていただきたいところ。

最古であり身近な神様

アラハバキ神のことを調べれば調べるほど謎が多く、直接訪れたい場所も同時に増えていきました。

様々な説があり姿の定まらない古の神様ですが、日々お世話になっている足や旅の安全を祀るアラハバキ神に少しの親近感と多大な感謝を感じざるを得ません。

いずれアラハバキ神を祀る神社を巡る旅に出ようと思いつつ、今日は道の端で見守ってくださる道祖神に挨拶をするよう心がけるひげのくまでした。

それではまた。

怪異とか幽霊とか 0

怪異とか幽霊とか

幼少期よりその魅力に取り憑かれ、水木しげる先生の妖怪解説VHSをテープが再生不可能になるまで観続けたひげのくまです。

2022.9.2に私の手元へお化け好きのためのエンタメマガジン『怪と幽』Vol.11が届きました。

こちらの雑誌、妖怪から始まり呪術、怪談、伝統芸能等をその道の達人たちが集結して作り上げる究極のお化けエンターテイメントマガジンなのです。

今月号の特集は悪魔くん

悪魔の力を借りて人類が平和に暮らせる理想郷「千年王国」を築こうと奮闘する水木しげる先生の傑作漫画。

2023年にNetflixにて令和版アニメが公開される予定だと聞いて胸の高鳴りが抑えられないのでした。

そして魅力的なのは特集だけではありません。

京極夏彦先生や鏡リュウジ先生の解説、高橋葉介先生の漫画など紹介したいところは枚挙に暇がありません。

久坂部羊さんと佐野史郎さんの対談があり、すごく贅沢な気分。

「魔実子さんが許さない」の読後は心がほっこり暖かくなりました。

妖怪 怪異 怪談 幽霊 呪術 ムー

この単語に反応する方は是非とも購入なさってください。損はしません。絶対。

わたし的にびびっときたのはロックバンド「人間椅子」の和嶋慎治さんが初めて手掛けた小説「暗い日曜日」

ジャンルの壁を越えたロックと文芸のコラボ、是非じっくり味わっていただきたいですね。

定期購読のご購入はカドカワストアから。

妖怪好きなお友達とかできたらいいなぁ。